Fio Maravilha(フィオ・マラビーリャ)
[2006.2.21]
ジーコはサンフランシスコを訪問した折、フラメンゴ時代の古き良き仲間と再会して来た。その名はジョアン・バチスタ・サーレス。名前では解らない?それならフィオ・マラビーリャと言えば解るかな。ミナスはコンセリェイロ・ペーナの出身のアタッカーで70年代前半にはフラメンゴでジーコのチームメイトでもあった。フラメンゴでの得点数は77ゴール。現在はアメリカに住みもうほぼ30年、永住権を得たアメリカ国民である。
ジーコとサイトが連繋して本人にインタビューの壁パス。会話はメールを通して行なわれたが、内容は下記の通りだ:
−君の家族からはフラメンゴに4人も選手を在籍させた凄い記録がある。最近の若者たちはその話を知らないのが多いけど、その辺を少し話して下さい。
「本当に一つの記録だね。ジーコがここに来て話した時もそんな話題になったよ。始めはジェルマーノ、長男だった。次に私だ。その次がミッチーラで最後がドウドウーだった。」
−いったい誰がフィオ・マラビーリャと言うニックネームをつけたのですか?
「さて、フィオと言うあだ名は子供の頃に付けられた。私があまりにも細い体だったからか、それともお袋が“メウ・フィーオ”(私の息子)と呼んでいたからかよく解らないがね。マラビーリャと言うのは音楽から来たものだ。」
−コンセリェイロ・ペーナが何故フラメンゴに入ったのですか?
「それはね、始めジェルマーノを連れて行った人が私もフラメンゴに連れていったのです。セニョール・デッチーニョと言ってね、あの頃私達が住んでいた地域の農場主だった。私達の父親と凄く中が良くて、彼がニテロイ市に引っ越した時にジェルマーノを連れて行った。その後で私が行った訳です。」
−君の人生の中で一度だけ最高の時期を過したとすれば何時の事になりますか?
「一つだけ大事な時期を選ぶとしたら難しいな。殆ど記憶に残っていないよ。だから今までの人生はずっと同じように大事な気が私はする。」
−君は多くの話題があるとジーコが言っていました。ジーコのサイトにはサッカーの話題のためのスペースがあります。君にも一つ面白い話をして貰いたいのですが。
「私の話は沢山あるけれど、何しろ記憶と言う友達が一緒に歩いてくれていないから思い出すのが大変だ。でも一つ楽しかったのと全く不謹慎な話をしよう。サウバドールでビトーリアと対戦している時だったが、我々のチームは全然試合になっていなかった。そこで監督は(あえて監督名は言わないが)誰かを引き抜くしかなかった。まあそんな時はいつも私に貧乏くじが回って来ていたのだが、私は一応構えてはいた。的中だ:フィオが出て代わりに若手のパウロ・セーザルが入る。その時それが解った時、私は若手に言った:“戻って監督に言ってくれ、私は出ないよ、と”。ピッチから出る、出ない、で私は出なかった。その内、監督は弟のドウドウーを私の代わりに入れると言い出した。そうなると私は出るしかない、その他私の足を引っ張るチーム仲間全員とね。今では思い出す度に笑ってしまうのだが。」
−ところで、君はもう永く米国に住んでいるが、何故ブラジルから出たのですか?現在は何をして生活しているのですか?
「私が米国に来たのは選手の頃でサッカーをやりに来た。だけど、来て見るとここのサッカーは色々と問題だらけだった。其処で2年ぐらい米国に残る事にしたのだが、其れが29年も経ってしまった。市民権を得てからも10年になる。今の生活はとてもいいから此れを今捨てる気持ちは無いね。」
−フラメンゴでジーコと一緒だったが、記憶に残る事は?
「私とジーコとの関係で一番大事なことは優しさ、尊重と友情の気持ちが通っていた事かな。それは何年経った今でも変わらないよ」
−君の人生で一番大事な人は誰ですか?それに今まで落胆したことなどはありますか?
「まあ、私が一番大事に思っていたのは私の父親だね。凄く大事だよ。自分の人生で落胆したとか落ち込んだことなど一度もないよ。自分がしたい事が出来てきたし今でも行きたかった所にいるしね。」
−今の米国のサッカーをどう言う風に見ていますか?女子サッカーの方が男子サッカーよりも強いような感じですが?それは何故ですか?
「私が1967年にフラメンゴのミックスチームで此処サンフランシスコに来た頃には女子は男子よりも相当サッカーをやっていたね。私はこれから先もこのまま変わらずに続くと思うよ」
−最後だけど、今度のワールドカップであなたは何を期待しますか?
「次のコッパでは皆がブラジルには簡単だと思っているようだが、そうではではないね。我々は相当苦しむだろう。」


