経歴
ドヴァーオはブエノス・アイレス市内でサッカーの道を歩み始め、アルマグロ地区のサン・ロレンゾへと入団しました。ゴールキーパーとしてプレーをした事もありましたが、天才的な巧みな足でのボール裁きが世間に注目されるまでには時間はかかりませんでした。彼は18歳で既に地元チームに所属し、1969年にフラメンゴへ移籍する迄の期間を7年間に亘り在籍しました。但し、彼は移籍前年度にアルゼンチンのクラブが奪取した唯一のタイトルであるメトロポリタン大会には残念ながら参戦する事はできませんでした。
金髪のロングヘアーをなびかせた二枚目のドヴァーオは、リオ・デ・ジャネイロに到着間もなく街に感激したようで、市内の飲食店で時を飾った人物でもあります。
フラメンゴに所属した初年度は、29試合に出場して9得点を挙げる成績を残しました。そして1970年には、特にウイングを中心にあらゆるポジションをこなしながら、39試合に出場して7点を獲得しました。
その後、ピッチ内でのトラブルはなくても、Yustrick監督はドヴァーオの無精髭と長髪の風貌、自由奔放なスタイルと衝突する事が多く、とうとう1971年に帰国を余儀なくされたのです。
アルゼンチンへ帰国したドヴァーオは一年だけHuracanに在籍しました。その後は結局、フラメンゴへ復帰する為ブラジルへと戻ってきたのです。センターFDとしてカイオ選手と組んでプレーをし、チームを1972年のグァナバラ杯とリオ・デ・ジャネイロ州選手権制覇へと導きました。更に彼は、16得点を記録して大会得点王に輝きました。その中でも彼が全得点を挙げて2―1のスコアで2度に亘り勝利したボタフォゴ戦での活躍ぶりは忘れる事ができません。その年、彼はシーズンを通じて60試合に出場して23ゴール挙げました。
1973年に攻撃の要だったドヴァーオは、後にパートナーとなるジーコと出会いました。彼らは1972年に共にプレーをした事がありますが、当時のジーコは控えの選手でした。時には、ドヴァーオ本人と交代をして出場した事もありました。
トップ下、2列目、FDのジーコとセンターFDのドヴァーオは「infernal(驚異)」の異名で知られるペアを組んでいたのです。二人のコンビネーションは完璧でした。1974年にこの二人はリオ・デ・ジャネイロ州選手権で、フラメンゴの優勝歴に新たなるタイトルを付け加えたのです。その年ドヴァーオは、輝かしい活躍で、フラメンゴで17ゴール決めました。
彼は1976年に、当時フルミネンセの会長を務めていたフランシスコ・オルタ氏による交換移籍劇に巻き込まれました。ゴールキーパーのヘナットとディフェンダーのホドリグェス・ネット選手と共にフルミネンセへと向かったのです。しかしそこでもストライカーとしての天職は依然として健全でした。リオ・デ・ジャネイロ州選手権で20ゴールを挙げてフルミネンセはチャンピオンに輝きました。彼はフルミネンセに在籍した2年間で142試合に出場して68得点を記録しました。
その後のドヴァーオは、自分を発掘してくれたサン・ロレンゾ・デ・アルマグロへと凱旋を果たし、翌年の1980年に引退をしました。ドヴァーオはアルゼンチンのクラブ史上に於いて偉大なる選手の一人に名を連ねているのです。この永遠なる「やんちゃ坊主」ドヴァーオは1991年10月12日の子供の日に、アルゼンチン都心の飲食店を後にした直後に心筋梗塞になり二度と戻らぬ人となってしまいました。



