経歴
ホンヂネーリ、本名アントニオ・ジョゼー・ホンヂネーリ・トビアスは、フラメンゴのトップチームの選手として7年間闘い続けた。サン・ジョゼー・ド・ヒオ・パルド市出身のパウリスタ(サンパウロ州出身の固有名詞)からは、フラメンゴ魂を持って生まれて来たという印象を彼のプレーを観たサポーター達は感じた。ザゲイロ(DF)としては決して上背があるとは言えない177 cmのホンヂネーリは、狂気とも言うべき気迫でカバーしていた。
「相手のキックに対してヘッドでカットに行く、唯一の選手でした。フラメンゴ対フルミネンセ戦で、ヒベリーノとの競り合中に敵の足に対してヘッドで挑んでいました。包帯のみではなく、それ以上の怪我にも関わらず、ピッチへ臨んだ試合は数知れません。彼の気迫は私達にも影響を与えました。」と、ジーコは語ります。
ジーコは、ホンヂネーリが14歳でガーヴェア(フラメンゴ)に来た時からの知り合いであり、彼とは長年の付き合いでした。1974年に彼は、レギュラー予備軍の座を獲得しました。プロとしての一年目に、彼は途中出場を重ねながら36試合を闘って1得点を挙げました。リオ・デ・ジャネイロ州大会を制覇した時は大きな存在となり、デビュー年からチャンピオンの襷を掛けて、幸先の良いスタートを切りました。
1975年にもフラメンゴでのセンターバックのレギュラー争いは継続するも、45試合に出場し、1得点を挙げてシーズンを終えました。実際には、守備での安定感をもたらすことが重要であり、ホンヂネーリは敵のフォワードに対して大変厄介な選手だったのです。その翌年には、背番号3番を背負いレギュラーの座を確実なものとしました。そして、ほぼ全試合にフル出場を果たしました。
1978年は、ホンヂネーリのサッカー人生が確実に変化を遂げた一年となりました。この年に、彼は英雄の座を獲得して、今日に至る永遠なるニックネーム「Deus da Raca(闘争心の神、一族の神)」を授かったのです。カンペオナット・カリオッカ(リオ・デ・ジャネイロ州選手権)決勝戦の対ヴァスコ・ダ・ガマ戦での出来事でした。後半41分にフラメンゴが右側からのコーナーキックを得ました。ジーコの合図に応じてホンヂネーリは、ディフェンスラインから相手エリア内へと向かいました。そして、彼はジーコの正確なコーナーキックに対して、絶妙なるタイミングで合わせ、強烈なキック如くのヘディングシュートをゴールネットに突き刺したのです。彼がフーブロ・ネーグロ(フラメンゴ)のユニフォームを背負って挙げた14得点中の1ゴールに過ぎませんが、しかしこのゴールの価値は、100ゴールに値するものでした。このゴールが、1983年までのフラメンゴの、一連なるタイトル奪取へ向けての聖なる一得点となったのです。
更に1978年には、ブラジル全国選手権ベスト・センターバックとしてプラカール誌のシルバー・ボール賞候補にも名を連ねました。そして次年度には、リオ・デ・ジャネイロ州選手権と、リオ・デ・ジャネイロ州選手権特別開催で2度に亘り、栄冠を手にしたのです。
1979年には、彼にとって初のブラジル代表選出の機会も訪れ。デビューました。結果は、ブラジル代表がバイーア州選抜と1対1で引き分けた試合でした。翌年の1980年には、更にブラジル代表の一員として2試合を闘い、ブラジル代表選手として合計3試合に出場したのです。でもその年の、彼の選手生命に於いての最大なる制覇は、1981年に東京で開催された、トヨタカップでフラメンゴ優勝への原動力となった、ブラジル全国選手権でのタイトルでした。
でも、ホンヂネーリはフラメンゴの2大栄光であるリベルタドーレス杯とトヨタカップ制覇の妙味に酔い痴れる機会には恵まれませんでした。彼は、コリンチャンス、そしてヴァスコ・ダ・ガマへと移籍をして、最後にはボンスセッソのユニフォームを纏いながら選手生命にピリオドを打ったのです。
そして引退後、彼は新たなる人生を歩み始めました。多くの元選手の同様に、ホンヂネーリは生まれ故郷へと戻り、指導者の道を選びました。先ず、リメイラ、ヒオ・クラーロ、そしてレーメのクラブ下部組織で活動をしました。そして、2003年にはゴイアス州選手権2ndディビジョンでゴイアニアのプロチームの指揮を執り、翌年にはブラジル連邦共和国の首都のCFZ de Brasiliaの監督としてブラジル全国選手権セリエCを闘ったのです。



