経歴
ヴァーオテル・マシャード・ダ・シウヴァは、生え抜きでもなく、同じユニフォームを長期に渡り纏わずに、チームにその名を刻んだ稀少なサッカー選手の例でもあります。
シウヴァ、1960年代の偉大なるストライカーのシノニム(同意語・同義語)ともなった異名を持つ名字の彼は、移籍による行き来も含めてフラメンゴには延べ4年間所属しました。サンパウロ州ヒベイラォン・プレット市出身の彼が、フラメンゴ魂を宿るには十分な期間でもありました。彼は、ベニテス、フーベンス、ディーダ、そして後にはジーコが身につけた伝説の10番を背負ったのです。
機敏でヘディングにも長けていたシウヴァは、 20年間に至る充実した現役生活を所属した数々のチームでストライカーとして活躍をしたのです。そのインテリジェンスに溢れ、理路整然たる精神での統率力を、オーケストラの指揮者が使用する指揮棒にちなんで、「バツータ」の愛称で知られるようになりました。
15歳の時にサンパウロでサッカーと出会い、コリンチャンスに発掘されるまでにバタタイスとヒベイラォン・プレットにも所属しました。そして、1964年にフラメンゴがチーム補強の為にシウヴァと契約をし、結果は素晴らしいものでした。論戦家のアオミール・ペルナンブキーニョと組み、丁度リオ・デ・ジャネイロ生誕 4世紀にあたる州大会でシウヴァは傑出した活躍をしてチームを優勝へと導いたのです。
フラメンゴ在籍1年目は 39試合に出場して21得点を挙げました。翌年の1966年には、この素晴らしいパフォーマンスを継続することでブラジル代表へ選出されたのです。デビュー戦は5月 1日の、ブラジル代表が2対 0でリオ・グランで・ド・スール選抜を下した試合でした。彼は、ブラジル代表選手として8試合に出場して5得点を記録したのです。残念ながら、唯一のW杯での公式試合は、1対 3で悲劇的な結果で終わった1966年のポルトガル戦のみでした。
輝かしい2シーズンを活躍後、シウヴァは欧州サッカーへと移籍してしまったのです。スペインのバルセロナで1年間プレーをするも、際立った活躍は出来ませんでした。帰国後、サントスに在籍し、1968年には再びフラメンゴへと戻り、約1年半所属をしたのです。彼はフラメンゴの選手として、計 132試合に出場し、68回ゴールネットを揺らして、サポーター に感嘆の念を抱かせたのです。
引退までには、シウヴァは更にアルゼンチンのレーシングへも移籍をして、チーム史上唯一人の得点王となったのです。そして、ヴァスコ・ダ・ガマのユニフォームを背負っても2年間プレーをしました。常に輝きを失わずにです。彼は、天敵ヴァスコ・ダ・ガマのユニフォームを纏いながらも、彼のフラメンゴとしての熱い血がガーヴェア(フラメンゴの本拠地)の伝説と化したのです。
偉大なる選手達の多くが歩む自然なる人生を、シウヴァも1974年の引退後に、監督及びコーチとして試みました。その後、下部組織のスカウトとして定着するも、60代で法学部を卒業して新聞の1頁を飾ったのです。こうして、シウヴァ弁護士に転向したのです。



