その日、夏の厳しい暑さの中リオは微笑みの朝を迎え、ジーコの27年間のサッカー人生を強烈な太陽と猛烈な暑さで祝った。バーハ・ダ・チジュカの自宅で新聞に目を通したジーコはあるコラムを読み心よりの感動をおぼえる。アルマンド・ノゲイラ氏(有名なジャナリスト)がブラジルジャーナルに送った記事の内容がジーコの涙をさそったのである。
ジーコは友人のファギネルと共に18時10分に18ゲートよりマラカナン入りした。ペペウ・ゴメスとモラエス・モレイラが彼を駐車場で待っていた。さらにもう一人の大親友のマルクス・ヴニシウス・ブカル・ヌネス(ジーコ最初の自伝の共著者)が入念なフェスタを用意していた。そのフェスタはプロジェクトジーコ≠ニ言いスローガンとしてはもしサッカーに魂があるのならその名はジーコ≠ニいうものであった。ピッチ内ではすでにフェスタは始まっていた。彼の幼年時代の最初のチーム、キンチーノAとBチームの対戦であった。幼年時代の仲間達に4人の兄達ゼッカ、ナンド、エドゥと とトゥニッコがプレーしており、その光景をジーコは入場用トンネルの入口よりじっと見守っていた。第二試合目のチームは実兄のエドゥが作ったノーヴァ・ジェラソン≠ニいう子供のチームのゲームでジーコ自身80年代よりこのチームの面倒を見ている。彼の子供、ブルーノとチアーゴもその白と青のユニホームを着て20分間2本のゲームで活躍、特にチアーゴは両方のチームでプレーしPKによる一点を記録した。この時点でスタジアムは既にファンで満員となっていた。

偉大なゲーム
21時25分ジーコはサッカーの神殿のピッチにつながる階段をあがった。驚いた事にメインスタンドと反対側にあるレフリーの控室から出てきた。スタジアム全体は4万人が白いハンカチを手にレーザービームの華麗なショーは感動的ですらあった。
前半は東京で世界一になったあの81年のフラメンゴに敬意を表し白いユニホームでプレーする。監督はパウロセーザル・カルペジア−ニ。当時のチームからは事故死したフィゲレードと参加できなったモーゼルが欠けてはいたがほぼ当時の面々で世界のスター選手を集めた相手と対戦した。
ワールドカップマスターズ・チームはドイツのブライトナ、クロル、ルンメニゲ等が名をつらねる。又イタリアのジュンティーレ、カウジオ、アルゼンチンのマリオ・ケンペス、ヴァルダーノ、ドイツのハンジ・ミュラー。残念ながらマラドーナ、フィジョール、プラテイニは直前で参加出来なかった。ファルカン、ロベルト・デイナミッチらがそれぞれの持ち味を出しチームにアクセントを加え、キーパーは若手の有望株のタファレルがコロンビアのイギータの変わりに急遽招集されジーコのシュート他ゴールを死守した為前半は0対0
後半はフラメンゴの90年代チームが登場レアンドロ、ジュニオールのベテランがジュニオール・バイアーノ、レオナルド、ジーニョ、レナトガウショ等と息のあったところを見せる。ワールドカップマスターズも交代でジェレッツ、タランティニ、マジェール、カマーチョ、メセイ、クラウジオアドン、ベベット等が入る。タファレルは2点を許すが2度のスーパーセーブでジーコのゴールを阻止する。この事で彼はジーコにわびを」入れる。何と言っても今日主役はジーコである為だ。
最終的に試合は2対2で終わるが、最初の得点は 8 分ジーコのスルーパスをバックのフェルナンドがキーパーと1対1になったところを落ちついて決めた。その直後にベベットがその持てる力を発揮しクラウジオ・アドンへ、34分にはタランティニへのアシスト。左サイドバックのレオナルドは35分に同点ゴールを決める。

感動のフィナーレ
後半43分正確には23時23分レフェリーのウイルソンカルロス・ドス・サントスがゲームを止めた直後、ジーコがヴィクトリーラン。この時、大観衆はその功績を大コーラスに込め見送る。ピッチの脇では1970年のあのカルリーニョスのシンボリック なシーンを彷彿とさせる形でジーコがスパイクをジュニオユースのプレーヤーで将来を期待されているピンチーニョに渡した。ピッチの真ん中でキンチーノ地区のスクールの生徒が約200人集合しており、その傍らでジーコが今までの感謝とその喜びのサッカー人生を語る。23時35分、9万人のファンに別れを告げピッチを後にした。
その後ロッカーでジーコは体の不調を訴えジウゼッペ・タラントドクターの診察を受ける。幸いにも大事には至らずにすんだ。試合後、コパカバーナのリオパレスホテル(現在はソフィテルの名)に招待者を招きディナーパーティーが行われた。ヴァレリア・モンテイロはジュニオールと共に出席しイタリア側の出席者の通訳をつとめた。ジョルジ・ベンジョール、フォグネル、ペペウゴメス、モラエス・モラエラ、ベベット等も充分に楽しい時間を送った。ジーコ自身も夜が明けるまで家族と共にパーティーを満喫した。その後、ほんの数時間休んだ後 16:00には、ラルゴ・ダ・カリオカにかけつけエモフィリコ・ホームに対し昨晩の入場者収入約US$100,000を病院設立の資金として寄付をしている。その病院は現在、リオ市チジュカ区コンデ・デ・ボンクィン764番地に建っている。
翌月ジーコはスポーツ庁長官として任命され一年間任務をはたす。 1991 年サッカーファンには応えられない出来事が起きる。ジーコが現役復帰の為、日本へ旅立ったのである。
最後の夜―アルマンド・ノゲイラ
マラカナンがフラッグで埋まる。今日はサッカーのクエスタである。夜空に求められるのは満天の星と満月。日曜日用の服(ユニフォーム)を着てラジオには新しい電池、どうか芝に特別な香りの水をまくのを忘れないでくれ。
今日は全員集合だ。欠席は許されない。今日はジーコのサヨナラゲーム。過去20年のゴールを全て皆で分け合おう。俺が欲しいのはあの得点、‘ 86 年ワールドカップ南米予選、パラグアイ戦の 2 点目だ。昨日の事の様に思い出す。相手エリア付近でレアンドロよりパスを受けるジーコはボールの変化にわずかにタイミングがあわない。それでも迷わずヒールでボールを浮かし4歩前に出てキーパーの左に見事なゴールを決めたのである。
一週間その場面をみつづけた。スペースの使い方、体とボールの絶妙なハーモニー、タイミングの妙、全てがマジックであった。ジーコは常に完璧さを求め続け努力を重ねていた。
通常のトレーニングの後ジーコは一人でフリーキックの練習をくり返した。壁を置きゴールの左右の上部にシャツをつるしそれにあてるキックを何度も繰り返すのである。ある時はバーに当りある時はシャツに命中し、ある時は枠をそれる。これをくり返した後の日曜日はボール自体が自然に動いてゴールが決まる感覚さえあった。私は自信をもっていえる事はこのジーコのフリーキックと同じ様に完成されたものをファンが目のあたりにすることが出来るのはまだかなりの年月が必要であろうという事だ。
親愛なるサポーター同志よ、マラカナン建立以来の最高のストライカーの最後の夜を祝おう。胸がしめつけられると思う。泣きたい者は泣くがいい。感情のおもむくままに泣くがいい。愛情の一粒の涙はスーパースターを永遠のものにする。
マナカンは永久にその目を見張る様なドリブル、永遠に語りつがれるパス、偉大なゴールを記憶する。ジーコは詩人であった。開きかけのバラを扱うように丁寧にボールを扱った偉大な詩人であった。
メキシコ民謡“シリトリンド”のジーコ引退記念バージョン
サポーターは一人一人スタジアムの入り口でジーコ引退記念バージョンの歌詞を受け取り後半 30分過ぎよりスタジアム全体が歌い始める。
去り行くものは喜びと共に
又 その偉大な功績と共に
それゆえ 涙はいらない
黄金の雄鳥のラストゲームに
泣くなジーコ
人々の胸に永遠にいて
さよならの言葉を口にする必要はないのだから
以下はピッチで見送った全ての人々に対するジーコのラストメッセージ、スタンドの人々に対しては電光掲示板に 4 文字づつメッセージが表れた。
自分の正直な感想を的確に表現するというのはドリブルでキーパーをかわす事より難しい。特にその感動の大きさがマラカナン・スタジアム級である場合はなおさらである。キンチーノのちっぽけな空地からスタートして世界最大のそれまで全てのピッチに於いて全てを出しつくして来ました。キャリアをスタートした頃はやせっぽちのただボールを追いかけるのが大好きな少年でした。但し、そんな私を信じてくれた人々がそばに居てくれた。そのおかげで今、私はこの場に居る事が出来る。サッカーは驚きのたくさんつまった小箱だと思います。私にとってそれらの小箱のほとんどは素晴しいものでした。サッカーを通して得た素晴しい友人達、瞬間、感動そして今ここにフラメンゴの ブラジル全土、又世界のチームの友人達、そしてこの根底には多くのサポーターの人々、声援があり、そのパワーによって自分は多くの得点をあげる事が出来た。ピッチを去る今、私はこの偉大な人々と同化する。そして再びブラジルが世界に輝く為に全努力を注ぎ込むつもりです。今日この場が私の最後のゴールとなります。一生忘れ得ない最高のゴール皆様の協力のもとに
心より感謝致します。
ジーコ