宮崎隆司●翻訳 translation by Takashi Miyazaki
photo by Reuters/AFLO
第63号(2007年12月17日)【カルチョの真実 vol.5】再び起こった事件〜失われた命を無駄にしないために
前回に続き“イタリア人の偏狭的サッカー愛”をテーマに書く予定であったが、勝手ながらも内容を変更させていただく。
なぜなら、先の11月11日(セリエA第12節)に起きた事件について書く必要性を強く感じるからだ。またしても露呈したイタリアのネガティブな側面、これを紹介することに多少の躊躇いがあるのは事実だが、一ジャーナリストとして、是非とも日本の皆さんにお伝えしたいと思うのもまた紛れもない事実だ。
イタリア中北部の街アレッツォ近郊において、余りにも愚か過ぎる事件は次のようにして起こった。
対インテル戦のためミラノへ向う途中であったラツィオのティフォージ、彼らが、休憩に入ったサービスエリア(バディア・アル・ピーノ)で午前9時過ぎ、パルマへ向う途中であったユベントス・ティフォージと衝突。
乱闘騒ぎとなり、そこへ警官隊が介入に入るわけだが、隊のひとりが放った銃弾がガブリエーレ・サンドリ(ラツィオ・ティフォージ)の命を奪ってしまったのだ。
現在は捜査過程にあるため、全容は明らかにはされていない。確かなのは、現場に居合わせた両ティフォージの証言が“威嚇射撃もなく、最初から狙って撃った”との線で一致し、一方の当局側は“誤射”を認めながらも、“あくまで偶発的事故”との主張を貫き事態の収拾を図ろうとしている点である。
よって今後の捜査は “殺意の有無”に焦点が置かれ、我々としては真相究明の時を待つより他ない。(ただし、一発目の発砲が致命傷を負わせたという点に関してはすでに立証済。すなわち、直後に放たれた2発目は“威嚇射撃の事実を残すための意図的な工作”であったとの公算が高いと見られる)
だが、遅々として進まぬ捜査の傍で、ひとつだけ確証を持って言えることがある。事件からわずか1カ月を過ぎた今日にして早くも、サッカー界はひとりの若者の死を忘れかけているという事実だ。
この世界に携わる者すべて、とりわけサッカー界を司る者たちの怠慢は見るに堪えない。尊い命が消えようと彼らは、過去がそうであったように、“ショーの継続”を大義名分に顧みることを避けている。これまでの悲劇を教訓としていないどころか、わずか数日もすれば彼らの思考から事件などは完全に消え去ってしまうということなのか。
なぜこのような痛ましい事件が起きてしまうのか? 何がティフォージらを暴動に駆り出し、過去にも同様の悲劇を数多く引き起こしながら、それでもなぜ彼らはなお暴力に訴えようとするのか?
それを考え、改善の為の提言を行なうような論調はメディアにもなく、仮にあったとしても、出される答えは常に“社会システムの不備”という一言で片付けられてしまう。それ以上に議論が発展することはなく、要するに、慢性的な高失業率に象徴されるような社会の中で、若者たちは単に“捌け口”を求めてサッカー場に集うのだ、と。
倫理観や道徳心、良識の欠如が学校教育に、あるいは社会体制そのものに理由を持つことが明白でありながら、そこに踏み込んで改善を図ろうとする者は誰ひとりとしていない。
国家としての法の不備に関しても同様。現状、仮にスタジアムで誰かを殺しても問われる刑は余りにも軽い。わずか数年でティフォージ集団への“復帰”が認められてしまう。
このティフォージ集団(ウルトラス)とはチケットの大量販売権を握り、それをクラブ側が認めなければ暴動を盾に脅し、時には同利権を巡る派閥間の抗争から現実に暴動が起こり、あるいは自らの力を誇示するためだけに意図的な暴動を演出し、結果として、自分たちの組織を社会体制への挑戦の道具とする。
こうした一連の循環を断つ法を作らずして、暴力の根絶など有り得るはずがない。何台の防犯カメラをスタジアムに設置しようと、そんなものは気休めにもならない。せいぜい設置から数日の後にはすべてが破壊されてしまう、というのがオチだ。
だが現状、繰り返すが、事態を改善しようとする動きは皆無と言わざるを得ない。今回の事件を受け、選手間でも“サッカーは関係ない”という声が大半を占める。クラブ首脳陣の間からも、<ティフォージの締出し措置>等の暫定措置を受け、聞こえて来るのは“入場者数制限による減収”を危惧する声ばかりだ。
前回の事件(9カ月前)当時と彼らの思考が何ひとつ変わっていない証だ。
今年2月2日にカターニアで起こった事件を皆さんはご記憶だろうか?
9歳の男の子と15歳になる少女の父親、ひとりの警官(フィリッポ・ラチーティ氏)が、サッカー場で命を落とした事件。
<イタリア南部の都市カターニアに起きたこの惨事は、同日午後9時、最悪の結果を見るに至った。同市内の病院(ガリバルディ)の緊急手術室にて、必死の救命処置の甲斐なくラチーティ氏は死亡。その時、 “なぜなの?”と繰り返す母の悲痛な叫びが病院に響き渡り、妻は呆然と一点を見つめ、少女は泣きじゃくりながら床に崩れ落ち、そして9歳のアレッシオくんは親類に抱きしめられたまま自宅で奇跡を祈り続けていた。だが、その少年の思いは遂に届くことなく、彼のもとへ大好きなパパが帰ってくることはもうない。永遠にアレッシオは父親にもたれかかることはできず、父は愛する息子の笑い声を耳にすることができない。サッカーが、ひとつの家族から幸せを奪った。>
以上が事件当時の様子だが、これを受けFIGC(イタリア・サッカー協会)とCONI(イタリア・オリンピック委員会)は共同で以下のような新法を制定している。いや、していたはず、だ。
1.アウェー試合への団体入場禁止。
2.危険行為を行なった者(未成年者)への社会奉仕活動義務化。
3.危険行為により検挙された者の拘束時間を36時間から48時間に延長。
4.ビジター側ティフォージの入場者数制限。
5.クラブ側とティフォージ組織の接触、経済支援禁止。
6.FIGCによる(危険行為を煽動する類いの)報道内容検証、警告。
7.スタジアム内外にSteward(武装警官)配置
しかし、この内の一体いくつが2月の事件以降守られてきたか? 仮に守られた条項があったとしても(具体的には7.等)、それが一体どれだけの効果を及ぼしていたというのか?
この間にも暴動、事件は各地で頻発していたにもかかわらず、検証はまったく為されずにきた。結果として、サッカー界を司る者たちの怠慢のツケとして、今回の事件があると言えるのではないか?
2月2日の事件から4日の後、セリエAとB所属クラブの会長42名は次のような声明を発表していた。『10日からシーズンは通常通り行なわれるべきだ。ビジター側のティフォージ入場規制、この暫定的導入の他に必要な措置はない。ショーは継続を拒む理由はない。華やかなショーは、観客なくして意味を成さない』と。
そして今回、この種の事件に彼らが“慣れた”からなのかどうか、シーズンの中断を主張する声など一切ないばかりか、誰もが『ショーの継続』は当然だと言う。なぜなら『サッカーは関係ないからだ』、と。
一方、2月に父親を亡くしたアレッシオ君は今も、母親に向って時折り『どうしてパパは殺されたの?』と尋ねるという。今回の事件で亡くなったガブリエーレは暴動とは関係なく、単に首位インテルとの試合に胸躍らせていたひとりに過ぎない。あの時、彼の乗るクルマはすでに現場を後にしようとしていたところであった。
DJの彼は軽快な音楽を口ずさみながら仲間たちとミラノへ向おうとしていた。その矢先、彼の首もとを突如として銃弾が打ち抜いたのだ。
12月2日(第14節)、一向に変わらないと誰もが思う以外になかった状況下で、突如として“秩序の在り方”に大きな影響を及ぼすかもしれない出来事がフィレンツェで見られた。
フィオレンティーナVSインテルの試合終了後、敗れたホームチームの選手たちが2列に並び、引き上げていくインテル選手全員を拍手と抱擁で見送ったのだ。
ラグビー界では当たり前の、あの光景である。暴力を全否定するとの思いを、言葉ではなく、実際の行動で示した形と言えるであろう。
だが、この現場サイドの自発的な動きに対し、Lega Calcio(協会)側は積極的に肯定する構えをみせてはいない。事実、当日の試合前に同行為を通知する文書を送ったフィオレンティーナに対し、Lega側の回答は「No」。
後に世論に押される形で肯定の意を示したとはいえ、この行為を正式に承認するのは『2008年1月からに限る』という。これを「義務化するか否か」の判断に慎重を期すべきというのがLega側の見解だが、一体何を躊躇すべきというのか。全面支持の構えを見せる、単にそれだけでいいはずではないのか。
なぜなら、すでに12月4日に行なわれた下部リーグで、実に多くの試合後に同様の行為が見られているからだ。一クラブの英断が、人々の中に眠っていた思いを引き起こした結果が早くも広がりをみせている。とすれば、これを「義務化」するのではなく、あくまで自発的な波及としてサッカー界全体に広がるよう促していけば良い。それが出来るか否か、W杯のファイナル以上に重要な局面にイタリアは立たされている。
Lega上層部を初めとするサッカー界に生きる者たち、そのすべてが思いをひとつにすれば何ら難しいことではない。今度こそ、失われた命を無駄にすることがあってはならない。







