現在位置: Sports@nifty > ロンドン五輪 > 北京五輪プレイバック 2008年インタビュー・澤 穂希


『3度目の正直は結果にこだわる』
17歳で初めて出場したアトランタオリンピック(※1)は、とにかく「怖いもの知らず」(澤)でドイツのGKに向かって突進した。ドイツ、ブラジル、ノルウェーと頑丈な体の女性たちに向かって、ただ体当たりしていった無謀な自分が懐かしいという。ただ試合をしただけ、1勝も引き分けにすることもできずにあっという間に終わったこと、そして体に染み込む悔しさ、それだけを覚えている。
「世界の厚い壁」の存在を体で感じたことは、か細かったティーンエイジャーを変えるきっかけにもなった。アトランタで知ったアメリカ、ドイツの選手たちの壁を何とか破ろうと単身で米国へ渡り、デンバーからアトランタと女子プロサッカーリーグ2クラブでプレーをする。ホームシックにかからなかったわけじゃない。でも、泣いてしまうから、と家には電話をしないと決めて歯を食いしばった。来る日も来る日も、フィジカルでは圧倒的な強さを持った外国選手たちに空中ではじき飛ばされ、引きずられ、それでも澤 穂希は踏ん張った。

2004年、アテネ五輪出場をかけたアジア地区予選が始まる年、米女子リーグの休止もあって帰国。ここから「なでしこ」の快進撃も始まることになった。9年間勝てなかった北朝鮮を破って2大会ぶりの出場を叶える。予選中に痛めた右ひざ半月板は、手術が必要だった。松葉杖をつき、この大会が最後なんだと自分に言い聞かせてリハビリをこなし、その後に起きた内転筋の肉離れにも耐え抜いた。
2004年アテネ五輪(※2)、アトランタ以来立ったピッチに手応えはあった。オリンピック開幕前に行われた強豪・スウェーデンとの一戦に1-0で勝って波に乗る。ナイジェリアには0-1で敗れたが、準々決勝へ進出。優勝候補の筆頭、かつてプレーをし、一度も勝てないアメリカと対戦するチャンスが巡ってきた。澤を含めて故障者が相次ぎ万全のコンディションではなかったこと、そしてアメリカに有利となる微妙な判定が流れを変えてしまう。しかし、あの1-2の敗戦があったからこそ、澤は今、自身3度目のオリンピックに臨むことになったのだろう。
「個人的にも、なでしことしても、あれは納得のいく戦いではなかった。不完全燃焼です。本当は、あの大会で、もうオリンピックに来ることもないな、と思っていたのですが、逆になりました。3度目の正直は何としても結果にこだわりたい」
五月晴れのピッチで、澤はそう言った。

インタビューの日、ちょうど4年目の「誕生日」だった。初めてひざの大きな手術をし、辛いリハビリを重ねてからの4年は、早かったという。29歳になったが、おそらくマイナスなんてひとつもないはずだ。肉体的にも、以前よりもずっと体脂肪が減り、動きにはキレがある。経験は厚みを増した。MFとして、2月の東アジア選手権では、一列下がったポジションで新境地を開き、チームは困難な条件を乗り越え、初めてのタイトルを手にしたばかりである。何よりも、17歳にも、25歳にも決して見ることのできなかった「視野」が今の澤にはあるのだろう。
国際Aマッチは男女問わず日本歴代最多の132試合、ゴールもトップの66。日本サッカー界のプライドは、いつもポニーテールをきつく結んで、風を切る。
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